11.30.2011

『どちらとも言えません』/奥田英朗

待望の単行本化です! 奥田英朗さんのスポーツ・エッセー集。

本書のエッセーの多くは『Number』連載中に既読でしたが、単行本化され改めて読んでみてもやはり抜群に面白かったです。月並みなスポーツ論に終始するのではなく、ワールドベースボールクラシック、朝青龍、ワールドカップ、オリンピックなど、日本人が熱狂したスポーツイベントをネタに、日本および日本人を語っている鋭い民族論・比較文化論にもなっています。

著者のスポーツ・エッセー集といえば『延長戦に入りました』がありますが、本書の方がパワーアップしているという印象を持ちました。それは、『Number』という格式の高い雑誌に掲載されたこととも無縁ではないでしょう。スポーツの起源についても博学で(『Number』編集部が地道な裏付け調査を行なったと思われます)、勉強にもなります。

それにしても目のつけどころが実に独特かつ的確で、感服させられます。日本人にサッカーが向いていないのはものを奪い合うことができないから。野球選手にも芸名をつけてはいかがか。野球監督は投票制にせよ。これらの指摘や提言には、爆笑させられると同時に思わず納得させられてしまいました。これだけスポーツ界の著名人をおちょくっていながら、不快感を与えるどころか思わず笑みがこぼれてしまうのは、根底には当人たちへのリスペクトがあることに加え、著者の筆力のなせる技でしょうか。毒舌が冴え渡り、「奥田ワールド」全開といったところです。

著者も書いている通り、スポーツというのは語られる楽しみが大きく、今やスポーツライターから有象無象の個人(含む自分)まで様々な記事や論評が無料で読めますが、本書こそお金を払ってでも読みたいスポーツ論です。

6.09.2011

『日本中枢の崩壊』/古賀 茂明

「日本の裏支配者が誰か教えよう」という帯のコピーに引かれ、手に取りました。

これまで霞ヶ関の官僚たちは優秀なのだと漠然と信じ込んでいましたが、本書を読んで認識を大きく改めさせられました。本来は国民のために働く彼らが、いかに霞ヶ関の掟に則り、総理や与党まで見下しながら、自分たちの既得権を守るために陰湿かつ無駄な活動に奔走しているか。驚愕の事実が綴られています。

現役の官僚が自身も属する組織を糾弾しているのですから、一種の暴露本あるいは内部告発本と言えるかもしれません。それだけに内容には信憑性があり、著者の覚悟がひしひしと伝わってきました。公務員制度改革は待ったなしの状況なのだと。それに加え、福島原発事故の原因が役人以上に役人的な東京電力の体質にあったという考察も秀逸。さらには、経産省の役人だけあって、日本の産業界を活性化するための提言もたっぷり盛り込まれています。日本が今抱える問題の数々は同根なのだと思い知らされます。

僕にとって心の底から読んで良かったと思える本は年に数冊程度ですが、本書は紛れもなくその1冊です。

6.03.2011

捕鯨問題に関して思うこと。

5/22(日)に放送されたNHKスペシャル『クジラと生きる』を見ました。一方の主張しか展開せず、それも表面をなぞっただけの、非常に物足りない番組でした。と同時に、この物足りなさが捕鯨問題の課題をよく表しているのかなとも感じました。
 
番組は、映画『ザ・コーヴ』で糾弾された和歌山県太地町の漁師たちと、シー・シェパードをはじめとする反捕鯨団体との攻防を追ったもの。この町は400年前から鯨漁を生活の糧にしてきましたが、2009年に『ザ・コーヴ』が公開されてから反捕鯨団体が町に常駐し、様々な妨害をするようになっています。漁や屠殺の様子を隠し撮りされ動画サイトに投稿されたり、車の前に立つことで漁師の行く手を阻んでは「Killer!」などと罵声を浴びせられたり。町の人々からすれば、先祖代々受け継がれてきた経済活動や食文化を否定されているようなものです。
 
ところが、番組では『ザ・コーヴ』への反論を意識しすぎたのか、漁師たちの言い分しか伝えていません。反捕鯨団体ついては、深い考えもなく漁りを邪魔する急進的な欧米人、といった描き方。双方の主張を紹介しないと、視聴者は冷静で客観的な判断ができません。また、番組の内容以前の問題として、失礼ながら漁師たちと反捕鯨団体のやり取りも非常に低俗なものに感じました。というか、そもそもやり取りになっていないのです。漁師は、「これが俺たちの文化だ」と頑として主張するだけ。過去の歴史も踏まえて論理的に食文化をアピールする、言葉の壁があるのなら通訳を介す、など相手に自分たちの主張を理解してもらうための努力が不足しているように思えました。反捕鯨団体側も、残虐なシーンだけを情緒的に取り上げて糾弾しているだけ。まるでかみ合った議論がなされていないように見受けられました。

欧米人と付き合う上で、捕鯨問題に関する議論は避けては通れません。ある程度親しくなった人からは、意見を求められることが多いです。僕はズバリ捕鯨肯定派です。日本固有の食文化を欧米人の押し付けによって放棄する理由はありません。ただ、もちろん一定の節度や捕鯨を快く思わない人たちへの配慮も必要です。

捕鯨に批判的な欧米人は、どこか欧米中心的な考えが根っこにあるように感じます。インド人は牛を神聖なものとして牛肉は食べませんが、それを外国人にまで押し付けません。イスラム教徒もハラルフードを異教徒にまで強要しません。

日本人は縄文時代から鯨を捕って生活の糧にしていたと聞きます。それも食用だけでなく、ひげは楽器に、脂は燃料に、というようにすべてのパーツを使い切る。それが鯨に対する供養の気持ちだと考えていたそうです。「いただきます」は生命をいただくことに感謝する言葉。あなたの命をいただく代わりに自分たちは生かさせていただいているという、食物連鎖の頂点に立つものとしての責務。「いただきます」に相当する言葉は、日本語にしかないそうです。こういった崇高な背景をもっとアピールする必要があると考えます。

4.26.2011

『中国人は本当にそんなに日本人が嫌いなのか』/加藤嘉一

タイトルにひかれ、純粋に日中関係に興味があり読んでみました。以前、日経新聞に紹介されていたことから著者の存在は知っていましたが、テレビなどは見たことがなかったので、今回初めて著者の主張を知りました。

まず、著者が日本と中国の架け橋となっていることの意義は素直に認められるべきだと思いました。これだけ近しい国なのに、日本人の本音を中国人に伝えられる人物が現れていなかったのが不思議なくらい。本書を通じて中国人のライフスタイルや考え方など、他では知り得なかった知見をいくつか得ることができました。著者は20代という若さだからこそ、中国人の懐に容易に入り込めたのではないでしょうか。

その上であえて苦言を呈します。率直に言って著者の主張が分かりにくい、というのが偽らざる感想です。もともと本書は中国で出版されたものを翻訳し加筆修正したため、ターゲットが日本人に絞りきれていない箇所が散見されました。中国の話と日本の話が交互に展開されるため、あまりのめまぐるしさに混乱してしまうのです(例えば「帰国したとき」という文が、中国に戻ったのか日本に帰ってきたのかすら明瞭ではない)。また、言葉に勢いはあるものの、意外と言っていることは表面的。日本を離れているためか、あまり日本の現状を知らないのではないか、と思える部分もありました(例えば現代日本人女性の考察など)。普段も間違ったことを中国人に伝えているのではないかと危惧してしまうほどです。さらに言えば、著者個人には興味がないのに、自身の生い立ちや輝かしい過去をひけらかされても正直困ってしまいます(巻末に著者の年表をつけられても…)。

とはいえ、どんな形であれ発信しないことには何も始まらないわけで、著者の勇気は称えたいです。

4.22.2011

楽しみだけど、素直には喜べない南米選手権参加。

楽しみだけど、素直には喜べない。そんな複雑な気持ちです。

すったもんだの末、日本代表が南米選手権に出場することがほぼ決定したようです。ただ、この期に及んで欧州組が15人集まらなければ辞退するとか抜かしているし、その欧州組の招集も南米任せ。万が一集められなければ、本大会まで2ヶ月余りというような段階で辞退するのでしょうか? それこそ無責任極まりない…。

もちろん、南米の競合とアウェーでの真剣勝負が見られるというのは楽しみでなりません。でも一度は辞退したのに、再考を促され軽々と翻意してしまった、そのプロセスはいただけない。日本サッカー協会が発表した辞退理由、Jリーグなくして代表なし、というのは非常に理にかなっています。選手たちはJリーグを中心とする所属クラブから給与をもらい、そこでの活躍をもとに代表に選ばれるわけですから、この順番を間違えてはいけない。だから、最初に辞退を申し出たとき、残念な気持ちがありながらも大いに理解を示したものです。なのにあっさりと翻意してしまうとは。

どうやら日本サッカー協会の人たちは、南米人の行動原理をあまり理解していないように思えます。僕も最近、南米人とよく付き合うので彼らの思考回路の一端が少しずつ見えてきました。僕の分析では、彼らは自分のメリットになることであれば、とりあえず“ダメもとでも言ってみる”人たちです。プレーを見ていても分かります。明らかなファウルを犯しても、レフリーに必死で嘆願してみる。それで万が一、自分たちに有利なように事が運んだらもうけもの。そんな例は枚挙にいとまがありません。僕は別にこれが悪いとは思いません。彼らが営々と築いてきた知恵/流儀なのでしょうから。

日本からのテレビ放映権料が入らなくなることを恐れたアルゼンチンサッカー協会は、日本のための大会にする、などとダメもとで言ってみた(そもそも「日本のための大会」というのは具体的に何をどうすることなのでしょう?)。ところが、日本がまんまと食いついてきた。だから、南米連盟が責任をもって欧州選手を招集する、などと口からでまかせを言わざるを得なくなった。というのが僕の勝手な想像ですが、あながち外れていないのではと思っています。南米連盟に丸投げした日本サッカー協会の外交力のなさに将来性のなさを感じ取ってしまうのです。


3.25.2011

『チャイナ・シンドローム』

広瀬隆・著『原子炉時限爆弾』に紹介されていたので、見てみました。1979年当時は公開直後にスリーマイル島事故が発生し、大ヒットしたそうです。

30年以上前の映画ですが、問題の本質は全く変わっていません。住民を無視し、資本の論理で原発運転を続け、事故が起きても隠そうとする電力会社、大事なスポンサーを失うことを恐れ表立った批判にまで踏み込めないマスコミ…。福島第一原発でも同じような丁々発止があったのだろうと想像し、否が応でも今回の事故と重ね合わせてしまいます。むしろ反原発の気運は当時の方がはるかに強いことが伝わってき、広瀬隆が嘆いていた我々の危機感のなさを感じ入りました。

映画作品としては、やはり古臭さは感じてしまいます。サスペンスですが、ストーリー展開はある程度先が読めてしまいます。また事故発生中、作業員たちが汗ひとつかかずに対応している様子があまり緊迫感がなかったように思いましたが、当時はこの程度の演出で良かったのでしょう。また、若き日のマイケル・ダグラスが製作者として名を連ね出演もしていますが、今の方がカッコいいです。

3.24.2011

『原子炉時限爆弾』/広瀬隆

今話題の書、Amazonでは在庫切れなのを書店でたまたま入手できました。

内容の信憑性について賛否両論あるようですが、読まないよりは読んだ方がいいと思いました。自分が、地震大国であり資源小国である日本に住む上で知っておくべき基本知識をあまりに知らなさ過ぎていたことに、今さらながら気づかされました。福島第一原発の事故に関しては、すべてが本書の通りになっているわけではありませんが、大筋では著者の不安が的中しています。政府発表や何某大学教授といった権威を闇雲に信じるのではなく、この混沌とした状況を自分の頭で判断できるようになるための一つの材料として有効です。

本書の優れている点は「分かりやすさ」です。日本列島の国土の成り立ち、地震の起きるメカニズム、原子力発電や放射性物質の原理、日本の原発が持つ耐震性の構造的欠陥などについて、一般の人の疑問に答えるかのように噛み砕いて説明してくれています。これは著者が学者ではなくジャーナリストだからこそ可能であったことでしょう。原発の専門家からは懐疑的な目を向けられたり、相手にされなかったりしているそうですが、それはあまりに痛いところを突いているからでは?

3.19.2011

『ほんとうは、どうなの? 原子力問題のウソ・マコト』/上坂冬子

福島第1原発の状況が予断を許さない今、原発について多様な立場を知りたいと思い手に取ってみました。しかし、この本はひどすぎました。中曽根康弘をはじめとする原発推進派重鎮と著者との対談集で、一方的な原発礼賛のオンパレードに終始しています。あまりに客観性に欠けるため、本当はあるであろう原発のメリットすら理解できませんでした。大事故へと発展した今、本書でしきりに「安全」を強調する推進派の言い分がすべて絵空事に思えます。

2.10.2011

『歌うクジラ』/村上龍

ようやく読み終わった、というのが読了直後の正直な感想です。iPad版が出た時から興味をそそられ、書籍版が出てすぐに購入したものの、なかなか読み進めることができませんでした。物語の世界に入り込みにくいことに加え、暴力や性の描写がグロすぎました。期待していただけに落差は激しく、途中何度も挫折しかけました。3360円という投資をしていなければ、とっとと投げ出していたかもしれません。

ストーリーとしては、現代とはまるで世界観が違う22世紀の日本を舞台に、あるミッションを背負った少年が目的地へ向かって旅をし、その途中で様々な経験をするというもの。ところが、その過程で少年が成長していくというありがちな冒険譚では決してなく、落としどころがつかみづらいのです。登場する人物たちも特に魅力的というわけではなく、誰かに感情移入することも難しい。読み手の忍耐力や想像力が試されているという印象を持ちました。そして最後になって、ようやくすべてつながりました。魂を揺さぶられたことは事実です。

なぜ村上龍はこのような小説を書いたのか? ダンテの『神曲』も発表当時から毀誉褒貶にさらされ、その後徐々に世界文学の代表作としての評価が確立したそうです。想像するに、出版界に一石を投じた発表形式、文化経済効率化運動という未来観、文法的に無茶苦茶で読みにくい日本語などすべての要素を含め、読者の賛否両論を煽り、後世に評価を委ねることこそ、村上龍の望むところではなかったかと思えるのです。

1.25.2011

『ソーシャル・ネットワーク』

久々の更新となりました。しばらくブログから離れツイッターに軸足を移していたのですが、やはりある程度まとまった考えを書こうと思ったら140字は短すぎました。

さて、話題の映画『ソーシャル・ネットワーク』を見てきましたが、期待に違わぬ大傑作でした。今や全世界に5億人の登録者を抱え、総アクセス数でグーグルを抜き、世界一のウェブサイトとなったフェイスブック。ハーバード大学在学中にフェイスブックを立ち上げ、弱冠26歳にして最年少の億万長者となった男マーク・ザッカーバグの物語です(フェイスブック側は認めていないようですが)。

この映画の何がすごいって、とにもかくにも脚本です。映画はマークとガールフレンドの口論から始まり、彼のうっとうしいまでの理詰めの追及から、その頭脳明晰ぶりや変人ぶりがまず明らかにされます。しかし、実はこれ以降、マークが自分の考えを表明する場面はほとんど登場しません。映画の大半は、訴訟シーンと周囲の人たちのマークとの関わりや感情のフラッシュバックだけ。これでマーク・ザッカーバーグという人間を浮き彫りにしていくわけです。例えれば『市民ケーン』と同じ構図(実際、本作を“21世紀の『市民ケーン』”と評するレビューも目にします)。

それにしても、最先端のテクノロジーを駆使し、生き馬の目を抜くビジネスに身を投じる若者たちを描いているにもかかわらず、そこで渦巻くのはカネ・友情・嫉妬・権力・階級といった人類普遍のテーマであることに何とも切なくなります。『ソーシャル・ネットワーク』というタイトルは、創業者が最も社会性がないことの皮肉に思えてなりません。いずれにせよ、旬のネタをこれほど見事に調理したデイビッド・フィンチャー監督の手腕に脱帽です。

唯一残念だったのは、トレーラーで流れていた「クリープ」(レディオヘッドのカバー)を本編でもエンドロールでも耳にしなかったこと。この曲はまるで教会で歌われる賛美歌のように幽玄な響きがあるのに、内容は“変態”について。これほどマーク・ザッカーバーグを的確に表現しており、この映画を締めくくるのに相応しい曲はなかったと思うのですが。